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数少ないブータンという超親日国【中編】

【前編】からの続きぃぃぃぃ!

では、なぜ日本から遠く隔てた小さな国ブータンが
【親日の国】なのか?
それには【西岡京治氏】の事をおいては語れない・・。
詳しくはこちらを見て頂くのが一番で、涙腺の弱い方は
涙が溢れてくる事でしょう・・。

1)国旗の重み 〜西岡京治物語・前編〜
2)国旗の重み 〜西岡京治物語・中編〜
3)国旗の重み 〜西岡京治物語・シェムガン開発編〜
4)国旗の重み 〜西岡京治物語・後編〜

と、この順番に観ましょう!
でも、見るの面倒くせえ!という方のために簡単に
端折ると、1964年当時のブータンの農業の収穫は
非常に少ないもので、食糧自給率が60%という状況を
改善すべく、海外技術協力事業団(現・国際協力機構)
は農業指導のために植物学者でもあり実力派でもある
西岡京治氏をブータンに派遣する・・。

しかし、当時のブータンの農業を牛耳っていたのは、
全て唯一国交のあるインドから派遣されたインド人。
そんな中、西岡氏は、彼らを納得させるべく、試験栽培
で日本から持っていった大根の種を植え、ブータンの
人々が今までに見た事もないほど、大きく立派に育て
上げ、その後、数々の野菜をも見事に育て上げる・・。

ブータンの人々は西岡氏を大絶賛し、当初2年間で
あった任期を国王から延長を懇願される。
やっと軌道に乗り始めて、このままでは終わらせたく
なかった西岡氏は喜んで承諾、今度は稲作に取り組む。
当時のブータンの田植えは適当に乱雑に植えていた。
それを日本のように並木植えに列で植えるように指導。
収穫量は見事40%も増量する結果を出す。

1972年、当時の第3代ジグミ・ドルジ・ワンチュク
国王が崩御、16歳という世界最年少の若さでジグミ・
シンゲ・ワンチュクが第4代国王となる。
即位するとすぐさま、西岡氏にブータン人から
「忘れられた地」と呼ばれ地理的に恵まれず、飢えと
闘いながら生きている極貧地域であり、山岳地帯で
あるため、急な斜面で水の通わぬ干からびた上、
谷に分断されて往来できない大地であるシェムガン県
を「ブータン人の身の丈にあった開発」「最小の費用
で、最大の効果」の信念の元、平地が無理なら斜面に
棚田を作り、現地で調達できるもので水路を引き、
現地の手法で橋を架け、5年後にはブータンでも
有数の穀倉地帯へと変貌させ、5万人を超える農民が
水田耕作で生計を立てられるようにした。

1980年、ブータン国王は、西岡氏の功績を讃え、
ブータンにおける最高位「ダショー(最高の人)」
の称号を贈る
・・。
その後もブータンに合った品種の改良を始め尽力する。
結果、西岡氏がブータンに来て28年後には食糧自給率
を86%にも引き上げる・・。
そして、1992年に西岡氏は死去する。享年59歳。
葬儀は、感謝の意を込めて、国葬として執り行われ、
妻の希望もあり、西岡氏はブータンの地に眠る・・。

語り継がれている素晴らしいエピソードのひとつに、
ブータン第4代ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王が、
1989年2月24日の昭和天皇の大喪の礼に参列された
時の話・・。
日本の1989年といえば、今と違ってまさに

【ザ・バブル】

真っ直中で景気が超良かった時代・・。
参列する葬儀の前後に他の国の首脳の多くが日本から
の経済的な協力を得るために、日本政府首脳と会談
する【弔問外交】を行っていました。
もちろん、外交として、これはどこの国でも通常に
行っている事であり、【弔問外交】をしたからと
いって、もちろん失礼でもなければ、非難されたり
する事ではありません・・。

しかし、ブータンは今も昔も下から数えた方が早い
貧しい国・・【ザ・バブル】な日本に対し、この機会
に経済的協力を得ようと考えたとしても全くおかしく
ないのだが、国王はこうした【弔問外交】をされず、
大喪の礼に出席して帰国の途につかれたそうだ・・。
新聞記者が理由を尋ねると、国王は

【日本国天皇への弔意を示しに来たのであって、
  日本に金を無心しに来たのではありません】

とお答えになられただけでなく、ブータンは、その年に
1カ月間も日本という他国の為に喪に服したそうです・・。

先日の宮中晩餐会における乾杯の際も、国王も王妃も
ご自分のグラスが皇太子さまのグラスの上に行かない
ように半ばかがむように気を遣って乾杯しておられた・・。
礼を重んじ、品格が滲み出てくる、まさに、日本の

【わび・さび(侘・寂)】

いや、日本の

【武士道】

にも通じる【国家の品格】でした。(T_T)

【後編】へ続くうぅぅぅ!