| 「病」 |
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| 病というものの目的はなにか?目的というと何か人間的でまるで意識があるような印象だが、より意識的な人間から見るからである。おそらく、だがあらゆる生命体には種族維持の本能がある。これはあくまで維持であるから、生命の危機に際して発動し、外界に積極的に影響する物ではない。あくまで環境ありきで、それに自らを適応させる。もちろん、生き延びた生命は種として、最適解かどうかは別として、道の選択に成功したことになる。だから現在の環境に現存の生命が適しているのは当たり前。すべてが合理的である必要はない。現在の環境で行きていくために必要な何かがあればよい。少なくとも必要でない能力は発達しない。なまけているわけではなく、余分な能力はより大きなエネルギー量を必要とする。生命はいきあたりばったりで、環境問題なんかには頓着しないが、自主的にエコロジカルな生活を心掛けている。しかし、環境適応能力だけは生命体のどこかにしまいこまれていて、「いざ鎌倉」を待ち続けている。 人も同じ、つつましい生命にすぎない。ただ、いつから歯車が狂ったのか、外界に働きかけるほどの影響力を持ってしまった今は、自分らが快適な生活環境を得るために、環境を変え、あまつさえ外界から自らを遮断することを考えている。もちろん、外界に左右されるということは、生命危機の可能性が常にあるということであるが、一方で生命として現在獲得している能力を捨てていくということになる。自らが動くという動物の能力さえも捨てることになるかもしれないと学者なら考えるかもしれない。植物は一見、動きはないし、それゆえに必要とされるエネルギー量も身体の大きさと比較して小さい。一生命体としては異常に長い一生をおくることからも人間が新化していくと、植物のような存在となるのではないかとも思われる。そんな植物も動物以上にダイナミックな変化の果ての現在の姿であるので、環境適応能力は人間の比ではないだろう。活動の休止期間を長くとれることや、環境変化に左右されにくい種の保存法、タネを作り出せることからも、それはわかる。 しかし、結局人間が種族維持の本能を持ちつづける限り、そういう方向だけに極端に発達していくことはないだろう。簡単な例でいえば、技術の発達は行きつくところをしらないのに対し、一方で健康への関心は依然としてあり、オリンピックといったことも行われており、その記録も伸びつづけているのである。それが純然たる身体能力の発達のみでなしえた記録かといわれたら、そんなわけはないのだが。また、生活力は、現在では資金力や金を生み出す能力を意味しているようだが、どんなにその能力が秀でていても貧弱な身体の持ち主がパートナーを見出せるかというと別の話である。つまり、人は贅沢であり、価値があるものはどんなものであれ、多く持っているパートナーを求めてやまないということなのである。結果、生命体としての本来の能力を維持しているという意味ではよいのだが、余分な能力を維持せずエコロジカルな生活をするという、生命体としての生活からは逸脱しているようにも思われる。そうした生活がもたらす環境の変化は技術の発達でなんとかしようとする。(Page.2へ続く) |
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