| 「一読者のヒトコト」 |
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| 本は著者のものだ。そのストーリーはおろか題材についても著者の自由だ。それはわかる。だが自分が期待していた内容でないもの、特にシリーズもので、これを読まぬで先に進めぬといった状況といったら、その悔しさは尋常ではない。自分が文を書くことが好きであるならば、そして自分が書いた文章に絶望した経験があるならばなおさらである。構想はある。ストーリーも悪くない。ただ形にすると、おもしろくない。読中、読後の高揚感それがすべてだ。ストーリーテラーはそのジャンルに関わらず、読者を他の世界にひきずりこみ、帰さないものが必要だ。それは言葉づかいでも、内容そのものでもよい。もちろん、それらの複合でもよい。先に自分の好みでないモノを読む苦痛について書いたが、何かがあれば、引きつけられることとなる。屈辱だ。 小説の黎明期における名文家の作品は、なるほど人間が生きていく上でどうしても当たらずに済ませない題材を用いている。百年程度で人の考え方が変わるわけはないのだから、ある程度は引きつけられるけど、それだけのネタだ。しかし、その表現は今でも十分通用する、というか実際に使われている。違いといえば、クライマックスシーンでもそれを感じさせない静謐な、ややもすると読み流してしまいそうな表現を使い、それがまたココロに響くのだ。やや文学青年にありがちな感傷なのかもしれない。だが、現在の表現はより直接的でむきだしで、最初のインパクトはあるものの、何度も読み直していけるものではない。これはかつての自分に顕著であったが、あらすじを追うことに夢中になり、それだけで満足してしまう。表現を気にしはじめたのは文を書くようになってからだ。曲のリズムで判断し、歌詞を気にしないのと似ている。こちらはいまだにそのままだ。今はそんな態度が合う時代なのかもしれない。 二つの極端な潮流が見えている。単なる上滑りの知識を得るための本、種本がもてはやされていると同時に、極限の人間の心理状態を味わう本も求められている。ネタとしては使い古されてきた観すらある、が、しかし何年か毎に必ずもてはやされるテーマ。ファッションと同じだ。ただし、ファッションがごく一部の人の思惟的な操作によって流行が生まれる傾向が強いのに対して、文学はもう少しその当時の世界の情勢といったものに根付いているように感じられる。いや、本当はあらゆるモノが操作されているのかもしれない。(Page.2へ続く) |
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