「素質-3」

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 本当のことを言えばそれは単に運がよかったということであり、確率論的に確からしいものだったのかもしれないが、この「運がよかった」ということほど、神の意思を直接的に感じられる瞬間はないであろう。この甘美な瞬間を味わうためには、自らの金をかけるリスク、思うように結果がでない焦燥感、もどかしさ、ほんの少し、いやあまりに大きすぎて全容が明らかでない期待感が、ないまぜになったあまりにも長い時間を経なければならない。
 そして、この気持ちがわかる人がギャンブラーであるといえる。しかし、これを感じたことのない人がいるのだろうか?何もパチンコに限らない。どんなささいなこと、例えば絶対に遅刻が決定的な程、自宅を出るのが遅れてしまって、のんびり駅まで歩いていると、電車が事故や故障やらで止まっていること。遅刻と承知して学校へ行ってみると、その授業が休講であること。何かしら自分の意思がそのまま具現化する、えもいえぬ快感。一方ではそれまで一度たりとも出欠をとれなかった授業でサボったその日だけ、出欠をとり、その後は二度と出欠をとることはなかったということもあるだろう。
 これも前述の正のイメージとは反対の負のイメージがあるが、まぎれもなく自分の意思・怠慢を見透かされたような、別の意思を感じるものである。もちろん、この意思が本当に存在するかは問題ではない。そしてギャンブラーはこの意思に身をゆだねて、勝っても負けても承知するわけではない。彼はそれに対して、身一つで自分を試す、文字通りそれはひょっとしたら、勝ち目のないバクチをうつのだ。幾多のギャンブルがこの世には存在するが、それらはすべて媒体にすぎない。つまり、すべての人はギャンブラーである。ただ、より積極的にそれを行う者を人はギャンブラーと呼ぶにすぎない。
 ギャンブラーという言葉そのものに負のイメージが、もっとひどく言えばダークなイメージがある。ギャンブルで出入りする膨大な金の一部は確かに非合法な組織の資金になっているかもしれない。ギャンブルで金を得たとしても。それはアブク銭といわれ、身にならないものだとされる。人はまっとうな手段で得た金でしか認めないのだ。また、ギャンブラーはそのために身をもちくずし、借金をつくりやすく、その路から容易に離れられないとも思われている。これらのことはおそらく事実であろう。ギャンブルに魅入られた人々はその後の生活は安定せず、家庭が崩壊することもあるだろう。(Page.2へ続く)

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