「おとなのなかのこども、こどものなかのおとな」

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 ・・・と考えるとやっぱり自分は意識しなくても「おとな」になっているのかというとそうではない。それらはあくまで自分がなんらかの方向に変化しただけであって、その方向が必ずしも世間一般にいわれる「おとな」の方向とはちょっとズレているようなのだ。人はみな育ってきた環境も異なるし、同じ環境にいてさえも自分のとらえかた一つ異なるだけでまったく違う人格を形成することだってあるだろうから、みんなひょっとしたら、どこにも存在しない「おとな」を求めてそれぞれの方向に向かっていっているだけなのかもしれない。
 思い起こしてみれば高校生のころだったか、けっしてほめられたものではけっしてなかったが自分の方向性が固まってきたことをぼんやりと自覚したような気がする。いうなれば、それが「おとな」になった瞬間だったのかもしれない。
また、たまにだが夜を徹して読書にふけり、妙に覚めた意識のままに朝焼けの中に身を投じて、頭の中に「然り、すべて正しい」というまるで高僧の禅問答にでてきそうなフレーズが浮かんでくるようなことも何度かあった。前者が「意識したおとなへの覚醒」だとすると後者は「無意識のおとなへの覚醒」といえると思う。この「無意識のおとなへの覚醒」は自分が周囲に溶け込んでいくような感覚さえあって、そのときの自分には一片の曇りさえもなかったと断言できる。
 結局、おとなのなかにもこどもはいるし、こどものなかにもおとながいることはあるんじゃないかと思う。アダルトチルドレンという言葉が定着して久しく、まるでそういう人種がいるかのような批評も見られるが、すべての人にそういう一面はあってたまたま長い期間その一面が強調されているだけのように思うのだが、どうだろうか。

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作:shun

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