「廃屋ver1-1」

 目はつぶったまま、唇をギュッとしめていた。低い嗚咽が時折もれてくる。少しでも目を開いたなら、心のダムとともに一気に崩壊するに違いない。男は隣に座り、時々聴こえないくらいな声で話しかけている。その表情には深刻な感じは少しもなく、むしろ唇の端はややつりあがっていた。
 「何でオレがなぐさめたり、あやまったりすることになるんだよ?確かに、オレが悪いもかもしれないけどさぁ・・・そんなに怒ることでもないだろう?」
男はちらと相手の表情を見、その変化のなさにあきらめたのか、こっちも目をつぶってしまった。無表情だ。たぶん、少しでも離れた客なら、わからないだろう。自分たちの状況を他人に悟られることはないように、静かに静かにやり過ごしていた。しかし、彼女の感情がおさまることはありえない。どこかで爆発する危険をはらんでいるように、時々かすかにしゃくりあげ、鼻をすすり、その度ごとにさらに唇の両端にできたシワを一層深くした。
また、彼は彼女に向かって話し掛けている。
「やめておけよ、どんなことをしてもムダさ 彼女の気持ちわかってあげられたとしても、どこかで発散しなけりゃおさまらないんだよ この状況じゃムリだ」
「ここで少しでも気に障ることを言ってみろよ 後で今に倍する苦労を背負い込むぜ」
男の考えである。女はそうはいかない。どんな状況であれ、男の何らかの言葉を欲しがる。けっして許しはしないのに、一時的でも何らかの言葉を欲しいのだ。そしてそれを正確に心に刻み込む。いつでも引き出せるように。
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 「そうよ、いつもそう 前に同じようなことがあった時もやっぱり困ったような、でもどこかに真剣味のない顔でいたわよね?」
「一応、あやまりの言葉をかけてきたけど、全部実のないコトバ だって許した翌日から同じことの繰り返しだものね 本当に私の言いたいこと、言ったワケも理解しないで、流してしまっていたのだわ でも、今度という今度はそうはいかないから・・・」
 男はタカをくくっている。そんなに怒っていたところで、結局一晩くらいゆっくり眠ってうまいものでも食べれば機嫌だって直るんだろうよ。今までだってそうだったし。
しかし、翌日になってもうわべだけの妙に丁寧な対応に、少し彼は不安になっていく。
「何だよ、まったくめんどうくせえなぁ なんでいつまでも前のこと覚えているのかな?いいじゃん、今がよければさぁ それともこれでオワリにしたいってことなのかな?それもいいかもな・・・」
「そういやぁ、この間ゼミの見学にきていた娘、ちょっとカワイかったなぁ ああいうおとなしめのコだったら、ちょっと浮気したぐらいじゃ怒らないんだろうな・・・それによくよく考えてみたら、社会人になって好き勝手やっていたのはそっちだぜ? しかもそのことを言うと
「いいじゃない、社会人になるといろいろ付き合いが増えるのよ 先輩の誘いを簡単に断ることってあなたできる?学生の時とはちょっと違うのよ」とこれだ。
ちぇっ、勝手にしろよ・・・。
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 隣り合う二人は乗っている電車に関係なく、違う方向へ進みそうだ。ひょっとしたら、何事もなかったようにアッサリと別れるかもな。
一つのイザコザが次のコトの発端となり、悪しき連鎖は終わらない。いずれ、お互いのことを第一に考えるようになるかもしれないし、後で「逃がした魚は大きかった」ということになるのかもしれない。でもこのカップルのこの時点ではならなかった。それがもっともつかむべき縁だったかどうかは一生わからない。この後戻りできない大きなアミダくじには、常に感覚をといでおくことだ。

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